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第1章 委員会設置の目的
第二次世界大戦終結後、荒廃した国土を復興するために、高度経済成長の道を選択した日本は、農業国から工業国への急激な変貌をもたらした。
これはすべての先進国が歩いてきた道であったが、わが国の場合はあまりにも急速であったので、変化の結果として何が社会に起ってしまうかに、十分な検討と対処する方法を考える暇もないうちに事態は進行した。
バラ色であるはずであった1970年代が初頭から翳りを見せはじめ、一転して安定成長期に移った時には、すでに3,000万の人々が農山漁村から大都会に移動し、農村型集合家族は崩壊して、工業型核家族に大転換し、都市の過密と農村の過疎が明確な形をとっていた。
加えて1947年に平均余命50歳を越えた日本人の長寿化傾向は、1980年代には「地方」を高齢社会に激変させ、専業農家は大減少して、ほとんどが兼業となり、さらに都会の華美な文明にひかれて、農村の青年と結婚する女性はいなくなり、1990年代には、もはや農村の後継者不足を越えて、子供がいないという究極の過疎に追い込まれた。
これによって多くの障害が生じたが、その中でも大きな特徴は、農村文化の全面的衰退であった。
日本人は多くの精神性を稲作から学び取り、その具体的な現れが、春夏秋冬の農作業にまつわる年中行事であり、行事に伴って先祖代々受け継がれてきた伝承芸能であった。それは同時に日本人の心の表れであり、農業及び農村のエネルギーの発露でもあった。
しかし、過疎によって担い手を激減されてしまった農村文化の衰亡は、時代の流れの中で、堰き止める術もなかった。
不幸中の幸いは、1970年代に入って、急速な変化の歩みが遅くなるにつれて、日本人が果して自分達はこれでよかったのかと、歴史を振り返って反省してみようとする気運が、少しずつ芽生えてきた事実であった。
それまでの農薬一辺倒の量産農業が、自然に還れの合言葉のもとに、自然を尊重する農業への立ち戻り傾向が現れはじめた。
ひたすら金と物が幸福を生むのだと信じて、外国から働らき過ぎの批判を浴びながらも、蜂の如くに働いてきた日本人に、漸く心のゆとりの必要が感じられるようになり、かつてのふるさとの香りが求められるに至った。
わが村わが町をもう一度見直してみようと、立ち上り始めた地域が出てきた。
圃場を整備し、道路を造り橋を架け、生産や流通の度合いを高める手段も急務であったが、再興の方法として注目されたのが、郷土に残された文化であった。
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